街路樹の話

 美しい樹木は,気持ちを和らげ,心を癒し,四季の移り変わりを身近に感じさせます。広大な中国や北海道の開拓地では,目印となり 防風,防塵を兼ねた並木が延々と続き道しるべとなっています。衛生面からは,大気汚染物質の吸着による空気の浄化や防塵の効果や緑陰の効果が期待されています。緑による二酸化炭素の削減と街路樹による蒸散作用で空気を冷却し,気温の上昇を抑えることを街づくりにいかすことが考えられてきています。都市の火災による延焼を防止したり,地震による落下物や建物などの倒壊からの回避したりする効果も重視されています。
 街路樹は,市街地の道路に沿って植えられたものをいいます。1932年10月の東京市訓令によって「道路樹木」といっていたものが改められ「街路樹」となりました。

  ○ 奈良時代に駅路の両側に果樹を植え木陰を旅人の休息の場とし,木の実を食料としたのが街道並木の始まりとされます。
  ○ 平安時代にも果樹の植栽が引き継がれ 平安時代前期 平安京の朱雀大路にヤナギ゙が植えられたころから道路並木として意図的に植えられだしたようです。
  ○ 室町時代には,並木の「保護令」が出されました。
  ○ 戦国時代末には,織田信長が東海道,東山道にサクラ・マツ・ヤナギを植え,各大名も領内の街道に樹木を植えて街道の整備を行いました。
 ○ 江戸時代に徳川家康は,「街路奉行」を置き徳川秀忠は,諸街道を整備するために,マツ・スギなどの並木の植栽を命じています。同時に「一里塚」を設けエノキを植えさせました。以降江戸幕府は,木陰の場所の年貢免除等 並木の「保護策」をとりました。スギ゙並木が寄進され 並木捕植の達しが出され 注意を喚起するために管理者がわかるような札を立てることを命じたりもしました。
以上のように江戸時代に日本の街路並木の技術・管理・運営の基礎が確立されました。
 ○ 明治時代には,近代都市計画により銀座にマツ・サクラが植えられたのを始めとしてシンジュ・ニセアカシア・シダレヤナギが植栽されました。明治40年には,冬期に雨滴による路面の凍結を防ぐ意味から落葉樹が10種選択されています。現代の街路樹の樹種の基本となるものです。
  ○ 大正時代に入ると東京の主要道路のほとんどに街路樹がみられるようになり「道路法」の制定により道路の付属物として位置づけられ,「道路構造令」[街路樹造令」により並木が公共物としてみなされました。関東大震災では,東京都の管理する街路樹の26,000本の半数以上が焼失してしまいました。
  ○ その後 震災復興事業を機会に全国の幹線道路に街路樹が見られるようになりましたが,第二次世界大戦により,被災した都市の街路樹の大半が焼失してしまいました。終戦後は自発的な緑化運動が起こり 街路樹の復活が図られる一方で 美しい街路樹の樹形を維持するための管理体制も整えられて,日本の道路事情に合わせた 樹木をコンパクトな樹形に仕上げる「庭園仕立ての街路樹景観」をつくりあげました。昭和40年代後半には,耐潮性,耐塩性の強い常緑広葉樹が用いられるようになり,昭和62年にリゾート法が成立し,花木などの景観木が用いられるようになりました。そして現在 世界的な自然環境の劣化が深刻な問題となる一方で身近な花や緑に安らぎを求め,質の良い緑への要求が高くなってきて,今ガーデンブームの時代です。

 身近にある街路樹をみると建築限界で定められている街路樹の枝下高の下限である歩道側2.5m,道路側4.5mとあるのですが,樹種によっては,極端に下枝がなくてバランスが崩れているものがみられます。病気や害虫の被害を受けにくいか,受けたとしても枯死には至らないような丈夫な樹種が選ばれているのですが,公園や庭の樹木に較べきびしい環境におかれるので,健全な樹木でも病害虫が発生するものに加え,衰弱することによって発生しやすくなるものがあるのです。街路樹の足元にゴミがあったり,看板を釘でとめてあったり,看板を撤去したあとも針金が幹に巻きついたまま残っているのをみるとやはり他人のものとみているのだと感じます。街路樹から恩恵をうけている私たちは,我が家の樹木のつもりで大切にし,周辺をきれいに保ち,乾燥期には灌水を行い,病害虫の発生や樹木の異常に気がついたらすぐに連絡することをおすすめします。


(参考 技報堂出版発行 街路樹 / ソフトサイエンス社発行 街路樹の緑化工 より)




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